ポール・ポワレ衣装展のエトランゼ気分は、現在のデザイナーの世界にまで続いてる。

ハウスマヌカンという言葉があります。ブチックで販売を担当する女性のことです。が、これは、ご存知《ぞんじ》のように日本の中だけで通用する意味合いです。ブチックお抱えのモデル。ハウスマヌカンとは、本来、こうした女性のことを指します。Rue du Faubourg St-Honor氏iフォーヴル・サントノーレ通り)に店を構えて、注文に応じて作られるオーダー・メイドのオートクチュールや、年二回、それぞれのシーズンの半年前に、春・夏物、秋・冬物コレクションを開催する、レディ・メイドのプレタポルテを扱っている、たとえばクロエ、ランバンといったブチックお抱えのモデルを、です。

ごく少数のフランス人、そして、数多い日本人とアメリカ人の皆様が、プレタポルテをドバドバ買っていかれるこの手のブチックには、アラブのお金持ちもやって来られます。戸籍上は何のつながりもない白人の女性を連れてです。リッチしてそうな彼らは、連れの女性に洋服を買い与えます。ハウスマヌカンは、ここでお出ましです。フカフカの椅子《いす》に坐《すわ》って葉巻の煙がプァオーンと昇っていく間にも、自分の持ってる油田からはブァオーンと宝の水が噴き出しているアラブのお金持ちは、取っ替え引っ替え、お洋服を着てマヌカンたちが登場するのを見ては、「コレとアレとソレ」。注文するわけであります。なぜか日本では、従来、販売員と呼ばれていた洋装店に勤める女の子たちのプライドとモラールを高めて、店への定着率を良くするための飴玉《あめだま》として使われるようになったハウスマヌカンという言葉は、ですから、本来の意味合いは、まったく違うのです。

はてさて、『朝日ジャーナル』読者へ向けての蘊蓄話《うんちくばなし》はそのくらいにして、八月二五日から九月七日まで、「ポール・ポワレ衣装展 モダンの原点 アール・デコ」なる催しが開かれました。ポール・ポワレは、一九世紀末から二〇世紀前半にわたって活躍したデザイナーであります。服飾キュレーターというネーミングの学芸員として、パリ市立パレ・ガラリエ服飾美術館に勤務するギヨーム・ガルニエ氏によれば、「女性をコルセットから解放した、アール・デコの著名なデザイナー」であり、「ポワレは洋服が環境の一部となり、生活に輝きを添えなければならないと考えた」のだそうであります。

貴族やサラ・ベルナールのような女優が、ビロードやレースを使った豪華絢爛《けんらん》なドレスを、けれども、苦痛を伴うコルセットで人工的矯正《きようせい》を行いながら着せられていたことに反発した彼は、コルセットを使わないハイウエストで、スカートが体にフィットした流れるようなラインのドレスをデザインすることで、フランスのみならず、アメリカの裕福な女性にも支持されました。

けれども、画期的だったこれらの洋服も、依然として、ハウスマヌカンがフロアを歩くのを見て購入する、所謂《いわゆる》、上流階級を対象としたものでありました。第一次世界大戦後、さらに活動的で自由になった女性に、地味で着やすいスポーティなアンサンブルを主体としたジャン・パトウやシャネルのプレタポルテが、代わって人気を集めるようになったのは、ですから、これまた当然のことでありました。ここまでは、多少なりともファッションに関心のある方ならば、ある程度、ご存知な内容でありましょう。

ポール・ポワレは、その活動の初期において、ワインレッドの布地に中国風のメダイヨン飾りを縫いつけ、中国刺繍《ししゆう》をほどこした黒いサテンが襟《えり》として使われたキモノ型のコートを作っています。これは孔子コートと呼ばれ、一世を風靡《ふうび》しました。大戦直前には、東洋のエキゾチシズムが一杯のドレスを発表しています。単にエレガントな、いかにも西欧、西欧したドレスのみならず、こうした、彼《か》の地から見たエトランゼ気分の作品が、結構、見受けられるのです。いや案外、こうした作品でポール・ポワレは高い評価を受けていたのかもしれません。

こうした傾向は、現在のファッション・デザイナーの世界においても存続しています。いや、むしろ、そうした傾向が、より一層、強まっているように僕には思えます。例を挙げてみましょう。“一枚の布”なるメッセージを追求してきたと言われる三宅一生氏の作品の数々をスライドで見ていくと、アフリカ、中南米、中近東、東南アジアといった地域の民族衣装の影が色濃く入り込んでいたのだな、という印象を再確認することが出来ます。

中、高校生からの御布施《おふせ》によって大きくなった、牛込は横寺町にある伝統的受験雑誌社の、ブランド物が大好きでジャグワーを運転なさるジュニア氏を、「これからは、ファッション度の高いグラビア雑誌しかないぜ」と、その気にさせたことからも推察出来るように、実体のない空っぽでいい加減な思いつきを、いかにも時代を捉《とら》えた代物《しろもの》であるかの如《ごと》く思わせることがクライアントへの「プレゼンテーション」というものだと考えてる節がある浜野商品研究所の浜野安宏《やすひろ》氏と仲が良かった時期に、現地へお出かけしてパチパチ撮って来た写真でイメージをふくらましながら作られたらしき、以前の三宅氏の作品は、多くのファッション関係者から、「思想」性のあるものとして評価を受けました。

当時のポール・ポワレについても、同じようなところがあったのかも知れません。先週、扱った建築同様、“人が入る器”という制約の下で作られる洋服は、ですから、我々の先祖が作り出して来た衣装からヒントやモチーフを借用してつくるしかない宿命が、多かれ少なかれ、あるみたいです。そうして、この点が、オリジナリティはなくとも手先が器用で、しかも箱庭感覚で育った日本人の中から、近頃《ちかごろ》、多くの優秀といわれるデザイナーを輩出している理由でもあるのです。

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