精神的ブランドに頼るビートたけしは“日本のレニー・ブルース”になりそこねた

その昔、ビートたけしが、「オレは、日本のレニー・ブルースになるのだ」と、いくつかのインタビューで答えたことがあります。それは、「赤信号、みんなで渡れば、怖くない」に代表される、ある種のラディカルさを抱えて登場した彼にお似合いな発言でした。

けれども、よおく考えてみれば、日本のレニー・ブルースとなるのは、大変なことなのです。なぜならば、多くの人間の皮膚にとって心地良い発言、つまり、考え方というのは、洋服なんぞのデザインと違って、あまりに新しすぎてはいけないからです。

その内容の八〇%くらいは、目配り、気配りだけで生き延びる「オピニオン・リーダー」たちも以前から述べていて既に一般社会の中で市民権を持っている、とりたてて新しいところのない代物《しろもの》であることが望ましいのです。そうして、後の二〇%が、多少の新しさを感じさせる代物である。正解はこれです。つまり、安心して聞いていることの出来る部分が基本としてあって、でも、ちょっぴり、新しい意見もある。その意見は、ほんの少しだけ背伸びをすれば容易に手が届く範囲内にあるというわけです。

ところで、この比率が新しい意見の方へと多めに傾いてしまうと、人々は、不安を感じ始めます。皮膚にとって刺激的な代物であるからです。そうしてそれは、ちょうど、まったく独創的で新しい物理や数学の理論が滔々《とうとう》と述べられた時、理解出来ないまま聞いている自分は、いわれなき劣等感、不安、屈辱を味わっているのだということを認めたくないがために、むやみと、その理論や、そのことを発見した人物への反発を行いがちなのと同じように、件《くだん》のラディカルな発言者へ押し寄せる波が高くなる、という結果を招くことになるのです。

一般的消費者のニーズよりも半歩か一歩先の商品を、同様に、半歩か一歩先の意識を小出しにしたマーケティングで売っていくと、最も多くの消費者を捉《とら》えることが出来るように、半歩か一歩先の意見を述べる人間こそが、多くのオーディナリー・ピープルから拍手で迎えられるのです。そうして、三歩も四歩も先の意見を述べる人物は、逆に石を投げられてしまうでしょう。コペルニクスが、そうしてレニー・ブルースが、よい例でした。

初期のビートたけしは、なるほど、和製レニー・ブルースとネーミング出来るだけのラディカルさを持っていました。けれども、不思議なことに、そのラディカルさを多くの人々が、さほどの抵抗感なく受け入れてしまったのです。どうしてだったのでしょうか? それは、以前、『an・an』の「今週の眼《め》」でも書いたように、社会規範、道徳に対する彼の挑戦《ちようせん》は、あくまでも、縦文字感覚に基づくものだったからです。

つまり、彼の風貌《ふうぼう》、出身、学歴、職歴、あるいは漫才師という肩書が、チンケなシャンデリアの輝く応接間も作ったけれど、そこにはカラオケ・セットが置いてあって、おまけに冬になると、ソファを端に寄せて、コタツを置いてテレビを見かねない、所謂《いわゆる》、卓袱《ちやぶ》台《だい》がある雰囲気《ふんいき》の精神性を残す大多数の日本人にとって、安心出来るものを、同時に与えてくれたからです。

「テメエラ、レイヤードした女子大生がさ」と彼が発言しても、その攻撃の対象となっている女子学生たちが、「アハハハ」と、劇場の観客として笑えたのも、そこに理由がありました。

もっとも、繰り返しますが、初期の彼には、横文字感覚に基づいて、「すべての物は等価である」と発言していた田中康夫と似通った、価値紊乱者《びんらんしや》的なところがありました。けれども、残念ながら今日の彼は、むしろ精神的ブランドに頼る、ごくごく普通の、何も新しいもののない一人の日本人になりつつあります。いくつか、例を挙げてみましょう。

家元という名の精神的ブランドなんてクダラネーと落語界に反発したものの、結局は自分も新しいお山の大将になっただけの立川談志の下へ、ペコペコ、頭を下げながら近づいて行ったこと。たけし軍団と称する年下の少年を一杯集めて、萩本欽一《はぎもときんいち》と何ら変わらぬファミリーを結成したり、あるいは、正しい批判と評価をお互いの間で行うことなく、ただ仕事をまわし合い、褒《ほ》め合うだけのサル山のノミ取り的互助会を放送作家やカタカナ商売の人たちと運営していること。

どうやら、彼には、あせりがあるのでしょう。自分は大変な読書家であるとインタビューで力説するのも、最近の特徴です。別に、読書家である、そのこと自体は、結構なことです。けれども、それは別段、大きな声でみんなに自慢するような類《たぐい》のことではなくて、むしろ、黙っているべきことでありましょう。

漫才師も小説家も、一般の人々からは、何をやっているのかわからない、馬鹿《ばか》な人だと思われていても、平気な顔をしてすべてを見せ、もう、見せるものは何もないと思われても、まだまだ自分は大丈夫と走り続ける、自信と不安を背中合わせに抱えた生き物でなくてはならないはずです。「本が部屋に一杯だよ」と言うのは、自分をすべて見せているのではなく、ただ、精神的ブランドに寄りかかった、不安を隠すための発言でしかないと、僕《ぼく》には思われるのです。

彼は、落語、文学といった「文化」なるネーミングでくくることの出来る範疇《はんちゆう》内の代物に対して、コンプレックスがあるのでしょうか。けれども、それは、価値紊乱者の漫才師としてスタートした彼自身の軌跡を否定することになるのです。そのことに、本人は気がついているのか、いないのか。そこのところは、僕にはわかりません。ただし、近い将来、「昨日、園遊会でお声をかけられました」「見てくれ、これが、勲章だ」とテレビの画面に頬《ほお》を紅潮させた彼が出てくるかもしれない、そのことだけは、かなりの確信を持って思えるのです。

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