美学とは何を学ぶ学問であろうか

大体人々は価値のあるものとして、真実であること、善良であること、美しくきれいであることの三つを好み、尊敬し、愛するのではないだろうか。その真実について学ぶのが、哲学、論理学であり、善良であることについて学ぶのが倫理学であり、美しいこととは何であるか、芸術とは何であるかを考え、たずねていくことが美学なのである。

それでは美しいということは、どんな意味をもっているのだろう。景色が美しいという場合と、建築物が美しいという場合と、絵画が美しいという場合は一応意味が異なるように思われるのである。その一つ一つについて、これから考えてみよう。

第一に自然の美しさとは何であろう。空、海、山河、あの大自然の美しさ、鳥や花、あるいは人の体の美しさでもやはり自然の美しさなのである。それらのものがなぜ美しいのであろう。この問題はまだ解けきれてはいない。実に数千年の間、人々はこのむずかしい問題の前にわからぬままに頭をたれているのである。しかし、いろいろの疑問を抛げかけている、この疑問の数々が、美学の歴史にほかならないともいえるのである。
人々がよく知っていると自分で思っていることで、案外わかっていないものが多い。例えば自分の体の構造や働きを知りつくしているだろうか。自分の体が自分の自由になっているだろうか。手があるとか、足があるとかということではなくて、もっと内部で、刻々いかに血がめぐり、いかに血管が縮んだり伸びたりしているか、わかっているだろうか。否、自分が自分を自由にすることすらできるだろうか。冷静であろうと努めているのに、顔が真赤になることはないだろうか。あるフランスの批評家のいったように、自分の体もまた一つの大自然であり、山あり川あり、無限の喜びと悲しみをもっている大きな天地ではないだろうか。それについて自分がわかっていることは実に僅かであって、星の世界についてわかっていないことの多いと同じように、自分の体の中の働きについて知っていることも少ないし、また自由にもなっていないのである。実に自分の体自身が考えようもない複雑な、緻密な、微妙な、精巧をきわめた秩序の結集体ではないだろうか。つまり宇宙にくらべるべき容易ならざる大切なものが、自分自身の中にもあるのである。それらのものについて私たちは何を知っているであろう。実は何も知ってはいないのである。

私たちが、日常のことで思い悩み、腹を立てたり、悲しんだりして疲れはてた時、ふと、自然を見て、「ああ、こんな美しい世界があるのを、すっかり忘れていた。どうして、これを忘れていたのだろう。」と何だか恥ずかしくなり、やがて、悲しみや、怒りを忘れてしまい、自然の景色の中につつまれ、「ああいいな」とうっとりとその中に吸い込まれていくことがある。この時私たちは、宇宙の秩序の中につつまれることで、その中に引き込まれて、自分の肉体もが自分は意識しないけれども、じかに、直接に響きあっているのである。美にうたれるというこころもちはこんなことではあるまいか。自然の大きな秩序につかまれ、抱かれて、私たちは自分の肉体をも、その中にそれにふさわしくゆだね、まかせていっているのである。しかもそれは無理にそうなっていくのではなしに、そうすることで初めて、自分が何を求めていたかがはっきりわかり、「ああそうだったのか」と、みずから安らけさを感じ、暢びのびと、気が開けていくこころもちになるのである。こんなこころもちの時、それを美しいこころとか、美の意識とかいうのである。

一言にしてみれば、これまでの不自由なこころもちが、その自然を見ることで、意外にも自分自身融けほぐれて自由になり、解放されたようなこころもちになることなのである。シルレルというドイツの詩人が次の意味のようなことをいっている。「人間が、自然の中に、自分の自由なこころもちを感じる時、それを美というのである」と。

歴史の中の、不自由きわみない時代にも、人間は、自然に面して、それに面している時だけでも、自然に戯れ、健康な自由を感じて、それによって、世の中のこの不自由がどこからきたかをかぎつけたのであった。シルレルはこの自由なこころを「美しい魂」Schne Seele と名づけている。彼の作品中の、人間の不正に正しく憤ったウイリアム・テルのもつ魂もこの「美しい魂」の一つである。また美しい魂は、だから、強い魂でもあるのである。考えてみれば、自然も、何の無理もなく本分をたどっているものもあるし、あるいは、毅然として、その秩序を守っているものもあるのである。あるいは何万年の水の流れの中に耐えに耐えて、その肌を円く円くしている岩のように、容易でない闘いのはての姿、自分たちにはかり知れない秩序を私たちに示しているものもある。

それをじっと見ている時、私たちは言葉でいいようもない深い深いこころの奥底で、または肉体でじかに、ああ自分のあるべき境地はこれであったのか、これがほんとうのあるべき私の姿だったのかと、自分自身にめぐりあったようなこころもちになることがあるのである。

自然にふれることで、自分のほんとうのあるべき、守るべき姿にぶっつかり、ほんとうの自由な自分、いとおしむべき、健康な、大切にすべき自分に気がつくことは、大変なことである。死んでも守らなければならない自分を、発見することでもあるのである。芭蕉が、「しづかに観ずれば、物、皆自得す。」といっているように、この時、物、みなの姿が、しみじみと芭蕉に伝わり、それを追求するために、年老いた彼をして、死を賭して旅に出しむるほど、美は強い力をもっているのである。

例えば、ライオンの子が、子どもの時、人間に捕えられて、羊の群れの中に飼われていたところ、ある日、森の中に、ふとライオンの雄々しい叫びを聞いて、勃然として、自分の血の中にライオンを感じて、かたわらの羊の子を喰い殺したという物語があるように、自然の中に、自分の自由のありかたをかぎつけた時、人間は、また柔らかい、柔軟きわみなきこころと、強い、強靭きわみないこころの二つのものを同時にもつことができるともいえるのである。

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