“物を得る充足感”を売る堤清二=辻井喬が“物に頼る寂しさ”を語ることについて

西武百貨店や西友なんぞの連合体である西武流通グループの、そのネーミングを、近頃《ちかごろ》、西武セゾングループと改称して張り切ってる人に、同時に詩人であり文学者でもある堤清二氏がいます。ご存知《ぞんじ》のように、池袋の片隅《かたすみ》でスタートした、“安かろう、悪かろう”イメージの武蔵《むさし》野《の》デパートを、“日本で一番品揃《しなぞろ》えがいい”イメージの西武百貨店へと変身させたのは、多分、氏の存在があったからこそでありましょう。

ところで、その彼が、このところ、『ブルータス』や『鳩よ!』での対談やインタビューで、「田中康夫が面白《おもしろ》い」といった類《たぐい》の発言を、辻井喬氏として行っています。

「ぼくは、最近また『なんとなく、クリスタル』を読み返してみたわけ。そしたら、なんと、こんなに寂しい小説ってそんなにないと思ったわけね。ファッション・ブランドみたいなものに頼って差別をする普通の現代人の寂しさというものがもろに出ていますね。そういう意味で、現代を象徴する小説だと思う」(『ブルータス』109号)

なるほど、と思わせるところはあります。けれども、よおく考えてみると、“普通の現代人の寂しさ”が生まれてきた、その過程において、当の発言者である堤氏の会社が大きな影響力を持っていたことを思い出してしまいます。いや、もしかしたら、寂しい現代人を作り出してきたのは、西武セゾングループであると言えるかもしれないのです。

既に、あまりに何回も述べて来たことですが、海外から数々のブランドを導入することで、彼らは自らのプレスティージを高めていきました。僕《ぼく》が言うところの新しい器を求めたのです。それは、誰《だれ》もが、かなり似通った教育レベルと生活レベルである日本人が、都市生活の中で、他人との差別化、つまり、使い古された表現を使えば、アイデンティティーの確立を行うために物質的ブランドへと走った際、大きな助けとなりました。

物質的ブランドの洗礼を受けた後、私たちが、“いい物、安く”でもありたいと考え始めると、無印良品なる代物《しろもの》を作り出しました。けれども、もちろん、これだって、新種の精神的ブランドに他《ほか》なりません。

そうして、これは大きなことなのですが、彼らのキャリアというものが、上昇ベクトルの物質的、精神的ブランドを一般の前に提示した場合でも、生理的拒否反応を起こさせず、安心して受け入れさせることを、可能にしたのです。外の器は啓蒙《けいもう》的な新しさを感じさせても、その中には、極めて日本的なるものが含まれていることこそ、多くの支持を集める上で重要なのだ、とする最近の僕の持論を証明する、格好の例のひとつでした。

練馬大根と狭山《さやま》の砂利を運んでいた西武電車が、その沿線にマイホームを念願かなって建てたサラリーマンの人たちを運ぶ、関東で一番に冷房比率の高い通勤電車へと変わっていったように、西武セゾングループも、彼らと歩調を合わせて、一歩一歩、上昇ベクトルとしての成長を遂げていきました。

もっとも、当然のことながら、世の中には西武よりも一歩か二歩先に、物理的豊かさを享受《きようじゆ》し始めていった人たちもいます。

その昔、経済学部を卒業するまで、幼稚舎からずうっと慶応だったという女の子と仲の良かった時期がありました。別段、そのこと自体は、おもしろくもなんともないお話ではあります。けれども、白百合《しらゆり》以外の学校で学んだことのない彼女の母親は、なかなかに興味を引かれる存在でした。西武百貨店でお買い物をしたことがなかったからです。三越と高島屋、せいぜい、松屋と伊勢丹へしか、お出かけしなかったのです。それは、学校帰り、友だちと一緒に西武渋谷店へお出かけしていた娘との、際立《きわだ》った違いでありました。

西武的なる空気が日本全体を覆《おお》おうとしている今、このジャンルの人たちを、いかにして陥落させるかは、彼らにとっての課題でありましょう。池袋や渋谷と違って、西武と共に歩んできた人たちだけがお客を構成しているのではない有楽町西武の悩みも、実は、そこにあります。去年、販売促進部長と話をしていると、彼は、「丸の内にある大手企業の秘書課で働くOLを集めてパーティーを開いたり、特典のある会員組織を作ろうと考えている」、そう言いました。

「大会社の役員やってるような人には、まだ、西武はブランドじゃない。でも、短大出の秘書には、西武への抵抗感はゼロ。彼女たちを優遇しておけば、たとえば、役員が急に海外出張。なのに、ネクタイとYシャツが足りないって時に、頼まれた彼女は西武へ買いに来てくれるでしょ。使ってみた役員は、西武もなかなかの品揃えだと、ウチのお客になってくれるかもしれない」

こういう発想が出てくるところに、その効果の程度や僕の生理に合う合わないは別として、西武の凄《すご》さがあります。もはや、東急や阪急では到底出て来ないであろう、そうした雑種混交の強さを持つ西武セゾングループを率いる堤氏は、けれども、西武が豊かになればなるほど、その分、普通の現代人の寂しさが増していくことを、辻井喬の名前で、ポロリと告白してしまいました。

これは、企業人、堤清二にとってみれば、消費者を欺《あざむ》く発言です。芸能界同様、流通業界を動かしていく人は、普通の人たちに、夢を与え続けなくてはいけないからです。たとえ、それが、アヘンであったとしてもです。多くの普通の現代人は、物に頼ることによって生じるその寂しさよりも、むしろ、物を得た時の一瞬の充足感に喜びを見いだしているからです。

戸籍上の堤清二氏の悲劇は、単に、ウソでもいい、ただ、一瞬の夢を売り続けることだけを考える企業人にしては、良い意味での芸術家の多感さを、少し、持ち合わせすぎていたのかもしれません。

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