人と環境問題に対する哲学の方法

現実というとき、先ず考えられるのは我々の生活である。この現実を顧みて知られることは、我々が世界の中で生活しているということである。我々がそこにいて、そこで働くこの世界は、環境と呼ばれている。環境というと普通に先ず自然が考えられるが、自然のみでなく社会もまた我々の環境である。むしろ我々がそこにある世界は何よりも世の中或いは世間である。「世界」という言葉はもと自然的対象界でなく人間の世界を意味した。環境は我々に近いものであるとすれば、人間にとって人間よりも近いものはなく、環境は我々に遠いものであるとすれば、人間にとって人間よりも遠いものはない。

人間と環境とは、人間は環境から働きかけられ逆に人間が環境に働きかけるという関係に立っている。我々は我々の住む土地、そこに分布された動植物、太陽、水、空気等から絶えず影響される。人間は環境から作られるのである。他方我々はその土地を耕し、その植物を栽培し、動物を飼育し、或いは河に堤防を築き、山にトンネルを通ずる。人間が環境を作るのである。即ち人間と環境とは、人間は環境から作られ逆に人間が環境を作るという関係に立っている。この関係は人間と自然との間にばかりでなく、人間と社会との間にも同様に存在している。社会は我々に働きかけて我々を変化すると共に我々は社会に働きかけて社会を変化する。人間は社会から作られ逆に人間が社会を作るのである。

人間は環境を形成することによって自己を形成してゆく、――これが我々の生活の根本的な形式である。我々の行為はすべて形成作用の意味をもっている。形成するとは物を作ることであり、物を作るとは物に形を与えること、その形を変えて新しい形のものにすることである。人間のあらゆる行為が形成的であるというのみでない、人間は環境から作られるという場合、自然の作用も、社会の作用も、形成的であるといわねばならぬ。もとより我々は単に環境から作用されるのではない。逆に我々は環境に作用するのである。環境が我々に働きかけるのは我々が環境に働きかけるのに依るということもできる。自己はどこまでも自己から自己を形成してゆくのであって、そうでなければ自己はない。しかし自己は環境において形成されるのである。生命とは自己の周囲との関係を育てあげる力である。一方どこまでも環境から限定されながら同時に他方どこまでも自己が自己を限定するという即ち自律的であるというところに生命はある。「生あるものは外的影響の極めて多様な条件に自己を適応させ、しかも一定の獲得された決定的な独立性を失わないという天賦を有する」、とゲーテも書いている。我々は環境から作用され逆に環境に作用する、環境に働きかけることは同時に自己に働きかけることであり、環境を形成してゆくことによって自己は形成される。環境の形成を離れて自己の形成を考えることはできぬ。

人間は現実的存在であるというが、現実的なものとはそこにあるものである。そこにあるとは世界においてあるということであり、世界はさしあたり環境を意味している。しかし次に現実的なものとは働くものでなければならぬ。働かないものは現実性にあるとはいわれず、ただ可能性にあるといわれるのである。働くということは関係に立つということである。現実的なものはすぐれた意味においてあるといわれるのであるが、「ある」とは、ロッツェがいったように、「関係に立つ」ということであり、関係に立つとは働くということである。あるとは知覚されることであると考えられるとすれば、知覚されるということもまたかような関係の一つに過ぎない。しかるに物と物とが現実的に関係するためには一つの場所になければならぬ。人間は世界の中にいて、そこにある他の無数の多くのものと関係に立っている。

人間と環境の関係は普通に主観と客観の関係と呼ばれ、私は主観であって、環境は客観である。主観とは作用するもの、客観とはこれに対してあるもの即ち対象を意味する。主観と客観は、主観なくして客観なく、客観なくして主観なく、相互に予想し合い、相関的であるといわれている。しかしながら両者の関係をただ相関的であるというのは不十分である。私自身は私にとってどこまでも環境とは考えられぬもの、反対に私にとって環境であるものはどこまでも私自身とは考えられぬものである。客観からは主観は出てこないし、主観からは客観は出てこない、両者はどこまでも対立的である。人間と環境の関係を主観と客観の関係と看做すことにはなお種々の注意を要するのである。いま取敢えず次のことを記しておかねばならぬ。

従来の主観・客観の概念は主として知識の立場において形作られている。主観とは見るもの、考えるもの、客観とは見られたもの、考えられたものを意味するのが通例である。そこで主観といえば意識と解される、知るものは意識の作用であるといい得るからである。しかるに人間と環境との関係はもと行為の関係であり、行為の立場においては、働くものは単なる意識でなく身体を具えた人間である。行為は意識の内部におけることでなく、行為するとは却って意識から脱け出ることであり、我々が意識から脱け出るのは身体に依ってである。行為するとは身体をもって自己の外にある存在に働きかけることであるが、自己の外にあるというのは単に自己の意識の外にあるということでなく、自己の身体の外にあるということでなければならぬ。行為については、ひとは行為の主観とはいわず主体といっている。かように何よりも行為の立場において形作られる主体の概念は、従来の主観の概念とは区別さるべき理由があるであろう。

我々は主体として単なる意識でなく存在である。しかるに従来の主観・客観の概念は意識と存在との対立を意味し、存在はすべて客観の側に追いやられ、主観はあらゆる存在を剥奪されている。もちろん、主体は存在であるといっても、その存在は客観的に或いは対象的に捉えることのできぬ主観的なものである。その存在は、客観化された場合、もはや本来の存在でない、それは反省的知識のために主体が自己を譲渡して対象としたものに過ぎず、主体そのものはどこまでも内面的な存在である。しかるにいわゆる主観には内面的存在性が欠けている、その存在は自己の譲渡によって自己が自己の前に投射した客観に専ら相対的であり、従って真の主観性を失っている。いわゆる主観は真の主観性ではない。従来の主観・客観の概念においては、主観は自我といわれ、これに対して客観は非我と呼ばれたが、非我は他我即ち他の人間でなくて物の世界のことであった。そこでは主として自然的対象界が問題であり、人間の世界、歴史的・社会的現実は問題でなかった。我に対するのは汝でなく、単なる物に過ぎなかった。しかるに単なる物に対する自己は真の自己であることができぬ、我は汝に対して初めて我である。

更に従来の主観・客観の概念においては、自己は主観として存在でなく、一切の存在は客観と見られる故に、自己は世界の中に入っていないことになる、世界は自己に対してあるもの即ち対象界と考えられ、自己はどこか世界の外にあるものの如く考えられている。かような主観は一個の抽象物であって現実の人間ではない。現実の人間はつねに世界の中にいるのである。我は世界の中にいて他に対しているのであるが、我に対するものは何よりも汝である。我は汝に対して我であり、汝なしには我は考えられない、そして汝は単なる客観でなく主体である。即ち主体は主体に対している。主観は客観に対して主観であるに反して、主体は根源的には客観に対してよりも他の主体に対して主体である。そこに主観の概念とは区別される主体の概念の本来の意味がある。いわゆる主観は、それが個人的自己と考えられようと超個人的自己と考えられようと、どこか世界の外にあって孤立的であるに反して、主体は主体に対して主体であり、従って元来社会的である。

もとより主体は単に主観的なものではない。我々は身体を有するものとしてすでに単に主観的なものであり得ないであろう。身体は自然的なもの、客観的なものである。しかしまた身体は物体とは異る主体的意味をもっている。物が自己の外にあるというのは身体の外にあることである、さもないと行為というものは考えられない。主体は単に主観的なものでなく、むしろ主観的・客観的なものである。それは客観に対する主観の如きものでなく、客観に媒介されたものとして主体である、客観を我が物とすることによって真に独立になったものが主体である。人間も世界における一個の物にほかならず、その意味において我々の最も主観的な作用も客観的なものということができる。人間の存在のかような客観性を先ず確認することが必要である。真に客観的なものとは単に客観的なものでなく、却って主観的・客観的なものである。

ところで環境は私に対してあるものとして普通に客観と看做されている。けれど翻って考えてみると、環境は私に対してあるというよりも私が環境の中にあるのである。環境は対象でなく、私がそこにおいてある場所である。環境のかような性質はその世界性格と称することができる。尤も、環境は一面閉じたものの性質をもっている、私がそこに住む環境は、この町、この国、更にいわゆる世界にまで拡げて考えても、つねに閉じたものである。環境が主体を中心とする円の如く表象されるのもそのためであって、円はその周辺をどれほど拡げても開いたものとはならぬ。しかるに閉じたものは世界とは考えられない、世界の根本性格は開いたものということである。閉じたものと開いたものとの差異は量的でなくて性質的である。閉じたものが一点を中心とする円の如く表象されるとすれば、開いたものは到る処中心を有する円の如く表象されるであろう。

環境は単に閉じたものでなく、その世界性格において開いたものの性質をもっている。即ちそれは閉じたものであると同時に開いたものである。環境は、私に対してあるのでなく私がその中にあるものとして、対象或いは客観とは考えられない。主観的なところを有する私の存在をうちに包むものは単に客観的なものであることができぬ。我々がそこにいる社会は単なる客観でなく、それ自身の意味における主体である。社会も身体を有し、風土的自然は社会の身体と考えられる。私に対してあるといわれるのは環境でなく、私と一つの環境においてある他のものである。それは私と同じく個別的なものであり、そして環境は一般的なものである。個物は個物に対し、一つの環境においてある。かような個物はすべて我に対する汝の性格を担っている。環境の意味での自然においてある個々の物も単なる客観でなく、むしろ汝の性格において我に対している。汝は我に対して独立なものである、客観とか客体とかといわれるのも、それが主体から全く独立なものであることを意味している。行為は独立なものと独立なものとの間に成り立つ、しかもかように関係するにはそれらは一つの場所においてあるのでなければならぬ。

我々がその中にある一つの個別的社会、例えば民族とか国家とかも、主体として他の主体即ち他の個別的社会に対し、それらは一つの環境、いわゆる世界においてある。かような世界も歴史的なものとしてそれぞれの時代に個別的であるとすれば、多くの世界がそれにおいてある世界即ち絶対的環境、もしくは絶対的場所、もしくは絶対的一般者ともいうべき世界が考えられねばならぬ。世界は世界においてある。世界がそれにおいてある世界は絶対に主体的なものであり、一切のものはこの世界から作られ、この世界の表現である。主体的ないし主観的ということを直ちに人間或いは意識と結び付けて考えてはならない。それはすべて形成作用のあるところに認められる関係であって、形成作用は表現作用であり、表現はつねに内と外との、主観的なものと客観的なものとの統一という意味をもっている。

一切のものは世界の主観的・客観的自己限定或いは特殊的・一般的自己限定として生じ、世界においてある。世界が世界においてあるという場合、その世界即ち無数に多くのものの総体としての世界と絶対的場所としての世界とは客体と主体というようにどこまでも対立すると共にまたどこまでも一つのものである。相対と抽象的に対立する絶対は真の絶対でなく、真の絶対は却って相対と絶対との統一である。かくて世界は多にして一、一にして多という構造をもっている。人間は世界から作られ、作られたものでありながら独立なものとして、逆に世界を作ってゆく。作られて作るものというのが人間の根本的規定である。

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