非自律的大衆社会状況におけるニュートラの復権について、ちょっとお勉強

「ニュートラは、シーラカンスだ」と田中康夫が発言すると、「アハハ、そうなんだよね」と笑いながら、うなずく人たちが数多くいます。読者諸兄も、先刻ご承知のように、ここで言うニュートラとは、四年くらい前まで街を席巻《せつけん》していた「ニュートラ」です。

たとえば、オレンジ色のセーターに緑色のスカートを合わせる、といった類《たぐい》のです。いかにも、女子大生、女子大生したこの手のファッションは、レイヤード・ヘアが下火になっていくのと軌を一にして、アウト・オヴ・デイトなものとなっていきました。

ここで、しばらく、ニュートラについての復習をしてみましょう。セーター、ブラウス、スカートという単品構成のニュートラは、どんな色の組み合わせ方をしてもオーケーな、それぞれが原色でした。「昨日まで、パジャマとセーラー服しか着たことのなかった、色彩感覚ゼロの女の子でも、失敗せずに着れるファッション」だったのです。

それは、一人一人の着ているブランドや組み合わせ方は異なっても、ある種の“制服”でありました。以前も述べたように、人は、なぜか、制服に対して、アンビバレントな気持ちを抱きます。その権威に反発しながら、同時に、憧《あこが》れてもみるのです。

進歩的な市民運動を進める人たちは、たとえば、警察官といった存在には嫌悪《けんお》を抱きながら、けれども、皆、御用提灯《ぢようちん》持って、お揃《そろ》いのネーム入りトレーナーを着るではありませんか。「モーター・ショーのコンパニオンやスチュワーデスって、気にくわない存在だ」とかなんとか言ってるサラリーマンや大学生は、けれども、ニコニコ一緒にスナップ写真を撮ったりするではありませんか。

前者は、あくまでも、自分の身を被抑圧者という“弱い立場”に都合よく置きながら、抑圧者の立場を擬似体験することの快感です。後者は、オフ・リミットの区域に、IDカードを胸につけて自由自在に立ち入れる人が抱くのと同じ快感です。そうして、後者の場合、近づきたいのに近寄り難《がた》かった制服というスクウェアな存在を、一旦《いつたん》、手に入れてしまうと、今度は、その相手方のスクウェアさが従順さというものに変化して、つい本人としては、一人の女の子を征服したような錯覚に陥る、忘れてはならない効果もあります。

ところで、ニュートラはドッヂボールの円みたいなものでした。その昔、世の中の大きな円からスピン・アウトして、自分の若い生理から生まれた理想を追い求めようとした人たちも、「分別」がついたのか、あるいは、理想を貫き通すことの金銭的困難さに音を上げたのか、次々に円の中へと戻《もど》って来て、何くわぬ顔して暮らし始めた70年代後半、若い人たちは、無意識の内、ドッヂボールの円の中に生きることを最初から選択するようになりました。

ドッヂボールの円の中に立っていると、外にいる人たちから石の代わりに玉を投げられます。「無個性ね」とアジる、批難という名の玉を投げかえすことも出来ず、ただただ、逃げ回ることに情けなさを感じてしまいます。けれども、みんなと一緒にいられることの安心感を、同時に味わってはいるのです。同志とまではいかないにせよ、少なくとも、円の中にいる者は、お互い、敵対関係にないお友だちです。外へ出てしまうと、違います。無個性者を批難する点では共闘しながらも、一人一人、本当のところは、誰《だれ》よりも早く円の中へ戻りたいと考える人たちなのです。

ニュートラという制服を着た人たちは、円の中に暮らしながら、アクセサリーやバッグといった単品を他人とは違うものにすることで、差異を出そうとしました。批難を受けた時に感じる後ろめたさを、こうした作業で解決しようとしたのです。

「ニュートラは、ちょっと」と、円から出て行った人たちもいます。けれども、その人たちが着たソフト・トラッドだの、ニュー・コンサバティヴだのも、やはり、制服でした。最初から、「ニュートラ、グエーッ」と言ってた人たちの着た「カラス服」のようなデザイナーズ・ブランド物も、これまた、考えてみれば、制服でありました。それぞれ、新しいドッヂボールの円を形成しているにすぎないのです。

ただ、その円が、ニュートラの円のようには大きくなく、ひとつひとつ、小さくなっているのです。大昔のように、「ひとつの大きな円があって、人は円の中の者と外の者の二種類。で、中の人は無個性で外の人は個性がある」。こうした単純な図式は、通用しないことになりました。ニュートラの円の外にいる人たちも、それぞれ、小さいながら、幾つものドッヂボールの円を作って、安心しているのですから。

こうした意味では、「ニュートラは、シーラカンス」という言葉に笑う人たちも、また、どこか別のドッヂボールの円に、その身を置いてはいるのです。そうして、ファッションでは、お互い、異なる円に身を置いてる者も、たとえば、スポーツや音楽においては、同じ円に入っているかもしれません。ファッション、スポーツ、音楽と、ワン・アイテムで一枚ずつ透明なスライドに円の分布を描いて、それらを何枚か合わせてみると、少しずつ、円の重なる部分が出て来ます。新しいベン図です。

11月6日付『朝日新聞』夕刊文化欄の「歩き目です」で引用されている村上泰亮《やすすけ》氏の「多様化・差異化は、自律性を意味するわけではない」は、こうした点を捉《とら》えていると思われます。机に向かっていてもある程度は考えられる、こうした総論は、これまでにして、来週は、「非自律的大衆社会状況におけるニュートラの復権」という各論を扱うことにしましょう。

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